ひとり親家庭で育ったのですが、ずっとひた隠しにしていました。
上京し大学で友人に話せたことがきっかけで、隠すことはなくなりました。
小さいころは二世帯住宅で父方の祖父母と住んでいたのですが、小学生だったある日、父親が家に帰ってこなくなりました。どうやら父方の祖父母の家で生活しているようでした。母は父方の祖父母とは仲がよくなく、ほとんど国交断絶状態でした。同じ屋根の下にはいるのに、一切顔は合わせないという、なかなかいびつな環境でした。
その後、小学5年生の時に母から、「父には他に大切な人が出来たが、自分たち兄弟のことを捨てた訳ではない」と聞きました。
泣く母を見たのは2回しかありません。そのうちの1回が、その時。母が泣いているのを初めて見ました。
思うのは、今に至るまで、母の支えがなかったら、確実にここまで生きてこられなかったということ。
東京の大学に進学し、一人暮らしできたのも、就職活動の時にスーツを着ていられたのも、母が切り詰め用意してくれていたからです。
貧乏エピソードは盛りだくさん。中学生の制服は小学校の卒業式に間に合わず、周りが中学生の制服を着るなか、自分だけ私服でたまりませんでした。
また、中学生で身長が30cmくらい伸びましたが、毎日着る中学校指定のジャージを1度も買い換えられませんでした。つんつるてんで7分みたいになったのを覚えています。
ひとり親の子に伝えたいのは、多少生活が苦しくとも、複雑な家庭の事情があろうとも、悲劇のヒロインになる必要は全然ありません。私は、多少のアクシデントも、いつか笑い話に、物語に変わると思っています。
母がことあるごとに、「銃を持った人があらわれたら、盾になれる」と言っていました。その言葉をずっと覚えていたことで、父親から捨てられてはいますが、十分なお釣りをもらっています。
モノも経験も時間も圧倒的に不足していましたが、愛情は確かに感じることができました。母の愛という後ろ盾があったからこそ、私はいつも挑戦し、前へ進むことができました。
最後になりますが、社会人になった今、地方にいた母を呼び寄せ、東京で同居しています。母に多くを返すことはできませんが、一緒に住むことくらいはできました。守られる存在ではなく、一緒に戦える日がきたのです。
この文章を読んでいる人がどんな気持ちかはわかりませんが、今が少し大変でも、歩き続けてください。家族で一緒に歩き続ければ、必ず景色は変わっていくと思います。
ライタープロフィール
山崎 岳
現在、新規事業立ち上げプロジェクトのリーダー。